戦前移民の多くは移住先で金を貯め、できるだけ早く故郷に錦を飾って帰ることを目的としており(錦衣帰郷)、現地に永住する考えをもつ者はほとんどいなかった。ところが西原清東は永住を目的として1903年テキサスに移住、日本人移民の居留地を建設しようとした。かねてより西原は日本の貧困、失業問題の解決には海外移住が不可欠で、しかも単なる出稼ぎではなく現地に永住・同化する必要があると考えていた。その実践のため西原は、弁護士、同志社大学総長、衆議院議員という経歴をすべて投げうち、日本での財産もすべて処分しテキサスで米作を始めた。 西原は新品種を導入し米の増産に成功、テキサスにおける米作発展に大いに貢献し「ライス・キング」とも呼ばれたほどである。ただ、西原のテキサス移住の目的は経済的成功もさることながら、永住・現地同化型の日本人居留地の建設にあった。しかし、1790年帰化法が障害となり、西原だけでなく他の日本人も米国市民権を得ることができなかった。しかも1907年の日米紳士協定により日本人移民を制限し始めたことから西原は米国での日本人居留地の建設を諦め、大量の日本人移民を受け入れているブラジルでの日本人居留地の建設をめざし転住した。 ブラジルでは気候、作物、文化、言語、商習慣などの違いもあり、西原の事業はうまくいかず経済的に困窮した。西原は高齢となっていたこともあり日本人居留地の建設を諦め、その農業経験を生かしベレン郊外のカスタニヤールにある南米拓殖株式会社の農事試験場で農作物(ことに稲作)の栽培試験・技術指導を同社のアカラ植民地の移民のために行った。しかし、高齢で体力的な衰えもあり妻とともにテキサスに帰国した。 ところがテキサスに帰国して1週間もたたないうちに西原は日本に出発した。これは日本政府が目論んでいる満州移住計画に、「ライス・キング」、政治家、教育者としての評判の高い西原のお墨付きを得たいという拓務大臣の依頼によるものとみられる。しかし、満州移住計画は西原の理想とする日本人居留地建設とは相反するもので、西原は満州を移住先としては不適としている。その後西原は台湾に移り稲の品種改良に励み、台湾の稲作振興に寄与した。しかし、高齢で健康面の衰えもあり、テキサスに帰国し家族と余生を過ごすことになった。この西原の生き方は戦前移民のなかでは異色とも言えるものである。
Yutaka Shimomoto (Sat,) studied this question.