本稿は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのカバルダ(ナルチク)地区における教員養成制度と教育学コースの機能について検討したものである。本研究では、この期間における教員教育の組織を規定する法的枠組みを分析し、多民族地域における教育政策の実施の特性を考察した。教員不足を克服するための政府の取り組みも示されている。初期には主に農村教員の養成に焦点を当てた教員セミナリーが人材養成の主要な形態となったが、その効果の限界は、より迅速な教員養成手段としてロシア帝国での短期教育学コースの普及に寄与した。本稿は、教育イニシアティブの効果に影響を与えた社会史的および文化的要因を分析し、同一学区で実施された成功例と非効果的なコースの事例を示している。これらの比較により、教育学コースの効果に影響を与える諸条件についての考察が可能となる。本稿は、1870年代のK.アタジュキンによる初期コースや特別学科から、I.M.カルモワ指導の下での2年制コース、さらには短期の専門能力開発コースに至るまで、カバルダ(ナルチク)地区における教育学的養成の各形態の変遷を検討している。これらの取り組みとカフカース教育地区の教育政策および地域特性との関係も追跡された。史料利用により、これらの形態の継続性と、行政決定、地域社会の共資金、脆弱な方法論基盤による効果の制限が明らかになった。本研究の結果は、コーカサスのロシア帝国教育空間への包含と、地域における教育および初等教育の早期発展に向けたイニシアティブの重要性への理解を深めるものである。本稿は、多民族地域における教員養成の形成過程と教育学研究所の機能を研究する歴史家および教育史研究者にとって有益な内容となっている。
L. A. ウルスマンベトワ(火曜)がこの問題を研究した。